ごあいさつ
120年のあゆみ
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1902年
(明治 35) -
佐々木時造 札幌丸茶阪部商店に入る
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1902年
(明治 35) -
1879年3月、京都府宇治町に誕生。 時造の祖父の代に宇治川において船による輸送で発展したが、鉄道の開通により家業は衰退した。時造は尋常小学校を退学し、京都の絹問屋に丁稚に出されたが、奉公先が廃業するなど苦難に直面した。そこで、佐々木家は北海道に渡航することを決め、小樽に移住するのであった。 小樽では、小学校の同級生である山田久太郎と出会い、丸茶阪部商店札幌支店長の山田は再三にわたり入社を懇願し、時造は1902年に入社した。
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1905年
(明治 38) -
佐々木時造 樺太大泊に単独渡航
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1905年
(明治 38) -
佐々木時造が樺太に渡航したのは1905年9月3日のことであり、まだ日露戦争が終結していない時期であった。それから2日後、日露講和条約が締結され、終戦を迎えたのである。これにより、北緯50度以南の地域が日本に割譲された。この地域は南樺太と称され、1907年に統治機関である樺太庁が設置された。 平岡定太郎長官(三島由紀夫の祖父)は日本から議員を招くことを計画し、これに対し時造は、蒸気機関車を樺太庁に納入し信頼を得たのである。
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1905年
(明治 38) -
日露講和条約調印
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1905年
(明治 38) -
丸茶佐々木商店を創立(丸茶本家よりのれん分け)
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1905年
(明治 38) -
丸茶阪部商店に入社後、時造は北海道全土に販路を拡大し、道内の茶問屋でシェア1位を獲得することに貢献した。社内において時造は高く評価され、宇治本店の店主である阪部卯之助は、山田久太郎と佐々木時造と義兄弟の契りを交わしている。 1905年11月には、恩義を忘れないために「丸茶」を冠した「丸茶佐々木商店」を26歳で開店した。当時、金属や機械の取引に従事し、創業からわずか10年で大泊栄町に石造りの店舗を構えるまでに発展した。
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1919年
(大正 8) -
樺太庁鉄道用レール5,600トンを初め樺太に於ける公私設鉄道、電信、電話、電灯用品、橋桁等の金物を一手に納入
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1919年
(大正 8) -
戦前の南樺太には、日本の行政機関として樺太庁が1908年に創設された。丸茶佐々木商店は、樺太庁の指定業者に選定され、鉄道の機関車や貨客車のほか、石油、石炭、自動車、鉄鋼などを取り扱った。 機関車などは樺太庁への納入実績があり、1919年にはレール5600トン、そのほかアメリカから輸入した機関車5両を納入している。 樺太庁のほか樺太の鉄道会社と取引関係にあり、南樺太における鉄道車両のシェア95%を丸茶佐々木商店が占めたのである。
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1923年
(大正 12) -
震災にて東京支店焼失
(気象庁ホームページより)
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1923年
(大正 12) -
丸茶佐々木商店の主たる業務は金物取引であったが、時代が降るにつれて取扱商品が多岐に及び北海道内だけで商品を調達することは難しくなり、東京に拠点を開設した。 1916年に日本橋区箱崎に東京出張所を設け、1918年には東京駅前の呉服橋に移転し、商品の仕入れを担当した。なお、この時期の取扱商品は、鉄鋼、鋼材のほかに爆薬、セメント、ガソリン、石炭コークス、塗料などであり、汽車製造、三井物産、日立製作所などと代理店契約を締結していた。
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1931年
(昭和 6) -
合名会社を株式会社丸茶佐々木商店に改組
佐々木時造 社長に就任
本店を東京日本橋呉服橋に置く
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1931年
(昭和 6) -
1931年に丸茶佐々木商店は株式会社として新たな一歩を踏み出す。 当時の官報によれば、佐々木時造が代表取締役、取締役には北武治、奥秀次郎が就任した。会社の事業内容は以前と変わらず、(1)金属地金類や金属加工品の販売、(2)土木・建築・鉄道などの機械器具などの販売、(3)自動車、石炭、セメントなどの販売などであった。 なお、写真は官報を転載したものであるが、「支店 東京市日本橋区呉服橋二丁目五番地一」とあるが、「本店」の誤植と考えられる。
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1933年
(昭和 8) -
王子製紙(株) 富士製紙(株)と樺太工業(株)を合併
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1936年
(昭和 11) -
丸茶佐々木商店創立三十周年記念祝賀会を挙行
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1936年
(昭和 11) -
1936年の創立30周年を契機に、丸茶佐々木商店は他業種に積極的に参入した。同年には、バス及びハイヤー事業を営む恵須取自動車株式会社が設立され、佐々木時造が社長に就任している。 恵須取とは南樺太の主要な都市であり、王子製紙の工場が設置され紙パルプ産業の拠点であった。さらに、1938年には樺太日産自動車株式会社、1941年には大泊石炭共販株式会社、1942年には樺太火薬工業株式会社などが設立され、事業規模は拡大の一途をたどるのである。
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1945年
(昭和 20) -
樺太の全事業と全資産を喪失
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1945年
(昭和 20) -
ソ連軍は、1945年8月16日~20日にかけて南樺太に上陸し、25日には大泊に進行した。 営業の本拠地を樺太とした丸茶佐々木商店は、ソ連軍の進行により莫大な資産、当時の金額で2000万円、現在の貨幣価値に換算して1500億円以上を失った。多角化の一環として特に注力していた富岡農牧場(1920年設立)なども喪失したのである。なお、農牧場の規模は100万坪(東京ドーム9.2個分に相当)であり、いかに広大な土地を失ったのかがわかる。
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1946年
(昭和 21) -
東海水産(株)創立 佐々木時造 社長に就任
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1946年
(昭和 21) -
第二次世界大戦後、佐々木家は、あらたに水産業に乗り出した。 東京の白金の邸宅を農林省(現在の農林水産省)に貸与していたのが縁で、農林省の我孫子藤吉と知遇を得た。安孫子は栄一郎に漁業を勧め、栄一郎は東海水産株式会社を創立し、父・時造が社長に就任している。復興基金公庫から資金を借り、GHQから漁船建造の許可を得て、石川島造船所において「第一日祥丸」「第三日祥丸」を建造し、遠くはインド洋にまで出漁した。
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1959年
(昭和 34) -
丸茶株式会社に社名変更。丸茶(株) 佐々木時造は会長、佐々木栄一郎は社長に就任
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1959年
(昭和 34) -
水産業への新規参入のほかにも、1945年には丸茶所有の牧場を開放し従業員の収容を試み、従業員の生活を守るため試行錯誤を繰り返した。 1950年には丸茶の商号で営業を継続し、紙パルプ業界への営業活動に注力するのであった。その結果、本州製紙株式会社江戸川工場に石炭焚ボイラ3基を納入し、さらに朝鮮戦争による特需も影響しボイラの新設を受注した。1959年には大規模な経営改革が実行され、社名を丸茶株式会社に変更し、社長が父・時造から子・栄一郎に交代し、120年の歴史において大きな出来事のひとつとされる。
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1972年
(昭和 47) -
佐々木時造 逝去(94歳)
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1972年
(昭和 47) -
佐々木時造は1972年6月1日に、94歳で逝去した。 6月6日に青山葬儀所において社葬が執り行われ、生前に親交があった三笠宮崇仁親王・百合子妃殿下のほかにも政財界の名士が、遺徳をしのんで多数参列した。
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1972年
(昭和 47) -
紙パ技術協会 佐々木賞創設
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1972年
(昭和 47) -
1972年6月1日、会長の佐々木時造が逝去した。享年94。 会長の強い希望により、会長の資産の一部を紙パ技術協会に寄附することとなった。もともと、紙パ技術協会は、関係会社からの寄附を辞退していたが、時造が戦前から紙パルプ業界に貢献していたため、寄附を受け付けたのである。これを基金として佐々木賞が新設された。 現在もなお佐々木賞は、紙パルプ業界において権威ある賞と高く評価されている。
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1979年
(昭和 54) -
日本汽力(株)の株式を過半数保有 丸茶グループ会社になる
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1979年
(昭和 54) -
日本汽力株式会社は、越沢繁太郎が1912年に創立した越沢組を源流とする会社である。何度か名称が変更されたが、現在の社名となったのは1964年のことであった。 日本汽力の親会社は、日本初の鉄道車両の製造会社として1896年に誕生した汽車製造会社(1912年・株式会社化)である。しかし、汽車製造株式会社は、1972年に川崎重工業株式会社に吸収合併された。 1979年には、川崎重工業株式会社が保有する日本汽力の株式の過半数を丸茶が引き受けることになり、その結果として、丸茶は日本汽力を傘下に収めたのであった。
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1990年
(平成 2) -
佐々木栄一郎が社主 佐々木浩二が社長に就任
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1990年
(平成 2) -
佐々木浩二は、これまでの社長とは一線を画し、技術分野において才能を発揮したエンジニアであった。1970年、慶応義塾大学工学部を卒業した浩二は、株式会社日立製作所に入社した。その後、マサチューセッツ工科大学に留学し、工学修士号を取得している。アメリカ留学の経験を踏まえ帰国後は、多くの研究員を統括し人工知能の研究に従事した。同社を退社した後、1986年に株式会社アドイン研究所を設立し、浩二は社長に就任した。 なお、同社が生み出した技術は、ボイラの保守点検に活用できる画期的な技術であった。このように浩二は次代の丸茶を担う人物として、1990年に社長に就任したのである。
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1997年
(平成 9) -
日本製紙岩国工場 薬品回収ボイラ一基納入
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1997年
(平成 9) -
日本製紙株式会社は1949年に設立された製紙会社であり、同社岩国工場に納入したボイラは当時として国内最大の容量を誇った。 ボイラは、川崎重工業株式会社が株式会社に改組して100周年を迎えることを記念し納入されたものであった。
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2004年
(平成 16) -
創業記念日 創業100周年を迎える
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2004年
(平成 16) -
2004年11月3日、佐々木時造が南樺太において会社を創業してから100年という記念すべき日を迎えた。 それは、日露戦争、第二次世界大戦という大きな2つの出来事を乗り越え100年というマイルストーンに到達した瞬間であった。 それを記念し2004年10月30日、日本工業倶楽部において丸茶会の式典が開催された。会長と社長の挨拶、永年勤続者表彰、乾杯、来賓祝辞と続き、昔日の懐かしい話に花を咲かせ、盛会のうちに終了した。
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2015年
(平成 27) -
佐々木栄一郎社主 逝去(104歳)
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2015年
(平成 27) -
1931年3月に創業者・佐々木時造の長男として誕生した。尋常小学校の6年生のときに、王子製紙株式会社の藤原銀次郎の勧めにより、慶應義塾普通部に入学した。1934年3月に慶應義塾大学経済学部を卒業、4月に株式会社丸茶佐々木商店に入社している。 1939年に樺太火薬工業株式会社の取締役に就任し、功績を評価され1941年には勲六等単光旭日章を受けている。1955年には、社名が丸茶株式会社と改称し、栄一郎は社長に就任した。 以来、栄一郎は信用を第一に誠実な営業を旨とする、いわゆる「丸茶商法」をもって社員を指導し社業の拡大をけん引した。栄一郎の活躍は社外にもおよび、南樺太の歴史や文化を普及する全国樺太連盟の会長に1980年に就任した。こうした活動の源について、生前、栄一郎は食事と運動であると語っていた。健康増進のためゴルフを好み、戦時中から面識があった大平正芳とはゴルフ仲間であった。
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2019年
(平成 31 / 令和元) -
本社を紀尾井町パークビルに移転し丸茶グループ(丸茶本社・日本汽力東京事務所・アドイン研究所)の協業体制確立