佐々木賞の由来のご紹介

佐々木 時造(ささき ときぞう、明治12年3月23日(1879年)~昭和47年6月1日(1972年))は、明治から昭和にかけての実業家。日露戦争に勝利した日本が明治38年に南樺太を得た年に単身南樺太に渡り「丸茶 佐々木商店」を開設した。当時は物資がほとんど無く、木の枝を折って縄で縛りバラック小屋を作り極寒の地に「丸茶 佐々木商店」の看板を掲げた。佐々木 時造、時に26歳。これが丸茶の始まりである。樺太には全ての物資が不足していて連日繁忙を極めた。 佐々木 時造は京都府宇治町で生まれ、11歳で京都の絹問屋に丁稚奉公した。その後紆余曲折があり、お茶問屋の丸茶阪部商店に入社しそこで頭角を現した。しかしながら独立の夢止み難く勇躍樺太に渡ったが、屋号は丸茶阪部商店の恩義を忘れぬため「丸茶」の看板を愚直に掲げている。

 王子製紙との関わりは樺太から始まる。王子製紙が樺太に工場を作る事になったのは明治41年、時の樺太庁長官・平岡定太郎の懇請を受けた事に遡る。平岡は樺太の人跡未踏の密林と地面のいたる所に露出している石炭に注目していた。そして三井合名の団琢磨を口説いて三井物産木材部長で後に製紙王と呼ばれる藤原銀次郎に産業振興の調査を依頼した。樺太のエゾマツとトドマツは製紙用パルプの原料として活用できるとの報告がなされた。藤原銀次郎は明治44年に三井から王子製紙に移り、大正3年の第1次世界大戦の洋紙需要の急伸長に呼応し、大正3年から樺太に工場を設置し最終的に9工場を設置した。

 敗戦で丸茶はほとんど全ての資産を失った。ただ引き揚げてくる従業員のために北海道の牧場を開墾したり、漁業を始めたりしたが素人の悲しさで全てうまくいかなかった。昭和24年、紙パルプ業界はGHQの財閥解体の指令を受け、王子製紙は苫小牧製紙,十條製紙,本州製紙の三社に分割された。その後徐々に復興の兆しが国内に見え始めた。翌25年から王子系3社を中心にボイラ-,真空蒸発缶,回収ボイラ-等を次から次と納入していった。また、朝鮮戦争が勃発してこの特需景気が日本復興に好影響をもたらした。
 永年の仕入れ先であった汽車製造株式会社が、昭和47年に川崎重工業株式会社に吸収合併され社業76年の歴史を閉じた。時を同じくして、丸茶の創業者である佐々木時造会長が昭和47年6月1日に逝去した。享年94歳であった。佐々木時造会長の遺言により会長の資産の一部を紙パルプ技術協会に寄付する事を申し出た。技術協会としては業者からの寄付は受け付けない方針であったが、故会長の戦前戦後の永年による紙パルプ業界に対する貢献度を高く評価し、特例として寄付を受付け故会長の寄付金を基金として佐々木賞を設け毎年賞を贈呈する事となった。

 昭和47年度を第1回として技術開発・研究開発により顕著な成果を収め、紙パルプ業界に貢献した個人または企業を表彰する。

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